『JAZZ ART SENGAWA 2019』
12年目の「JAZZ ART せんがわ」開催です!
しれっと終了させられるところでした。11年間の評価も、決定に至る過程も根拠も不明のままで…。が、だからこそ、このフェスを大事に思ってくれていた、多くの方々の存在も、はっきりと知ることができました。皆さまの応援が、不可能を可能にしてくれました。「JAZZ ART せんがわ」史に刻まれる、特別な年になりました。
本当にありがとうございます!
みんなで作った「JAZZ ART せんがわ」という「広場」、存分に遊びましょう!
メールス・ニュージャズ・フェスティバルは半世紀ちかく、昨年から交流が始まったケベック州ヴィクトリアヴィルは35年、もはや我々の代で終わらせるわけにはいきません。
これからが正念場、今後の展開にも、どうかご注目ください!
『JAZZ ART SENGAWA 2018』
「JAZZ ART せんがわ」11周年の今年、22年住んだ一軒家の借家から、ついに引っ越した。台風で屋根がとばされたこともある、正真正銘のボロ屋。仕事部屋の床は傾き、小一時間も居ると眩暈がしていたので、「脱出」というのが正しい。
引っ越し先は6畳一間のアパートで絶対的に狭くなる。本、音盤、資料の類は実家にとりあえず移送、後はひたすらに物を捨てていく作業だった。ゴミ屋敷だったのかと思うほど長年の堆積物は半端なく、一般的には訳の分からないものばかり。例えば大量の「東スポ」、スミからスミまで精読する関係で、時間が追いつかず、今現在で5年前のものを読んでいたり、確かにどんどん溜まっていくはずだ。
まあ、僕の音楽の源泉は、こんな生産性皆無、有象無象の「無駄」にあったりするのは間違いない。
因みに、音楽ドキュメンタリー映画「We Don’t Care About Music Anyway」(2011年公開/セドリック・デュピール&ガスパール・クエンツ)での、僕のインタビューシーンはこの家で撮影したもの。この、外壁を覆うツタが内部に侵入してくるような、すき間だらけの家は、基本なんでもフリーだった。
中でも忘れられないのは、セミ。なんと台所で羽化していたのだ…。
「JAZZ ART せんがわ」11周年、ミュージシャン、スタッフ、ボランティア、関係諸氏、
そして仙川に足を運んでくださった観客の皆さま、本当にありがとうございます!
『JAZZ ART SENGAWA 2017』
「以前以後」
自治体主催のジャズフェスとして、規格外のプログラムで挑戦してきた「JAZZ ART せんがわ」、ついに第十回目を迎えることができました。これまで参加いただいたミュージシャン、スタッフ、ボランティア、関係諸氏、そして仙川に足を運んでくださった観客の皆さま、本当にありがとうございます。10年分のご縁、しみじみと感じております。
第1回「JAZZ ART せんがわ」が行われた2008年を振り返ってみると、日本で初代iPhone発売、Twitter、facebookの日本語版が続々とリリース、そしてリーマンショック、その後に「以前以後」と続けられる事象がずらり。そんな規模でなくとも、「何か」に出会った時、価値観を揺さぶられるような、出会う以前の自分にはもどれないような「以前以後」体験は、一人一人にあると思います。病気、災害、家族、その「何か」は様々ですが、芸術からもたらされるものも決して小さくないでしょう。
10周年スペシャルの特盛版「JAZZ ART せんがわ」を、どうぞお楽しみ下さい。
そして、願わくば、誰かの「以前以後」であれたら…。
『JAZZ ART SENGAWA 2016』
「Screen Memory」
初めて聴くはずなのに、ずっと昔から知っていたような、懐かしさを感じる音楽がある。呼び起こされた記憶や感情が絡み合って生み出される新たな記憶、もっと言えば、偽りの懐かしさ、極めて音楽的な体験だと思う。が、風景でも、時に、そんな想いにとらわれることがある。
10年ほど前、ある芝居公演に参加するため、僕は台湾のハンセン病患者の隔離施設「楽生療養院」に訪れたことがある。小高い丘に、瓦屋根の三合院など日本統治時代にタイムスリップしたかのような不思議な風景がひろがっていた。丘を登っていくと、てっぺんには、遺影が飾ってある小さな祠があった。家族と別れ、二度と戻ることのできない楽正橋を渡った患者にとって、最期のこの祠こそ唯一の「出口」だったのだと思う。
新交通建設による強制移転が社会問題化してきた頃で、大規模工事によって、半分えぐりとられた丘の上にちょこんと立つ祠、そのコントラストも強烈だった。過去現在未来がぐるぐると渦巻く、あの祠の風景を見たとき、不思議な懐かしさを感じたのを覚えている。その時に出来た曲が「Screen Memory」という曲で、後に東京のランドスケープをテーマにした映画「WE DON’T CARE ABOUT MUSIC ANYWAY …」(監督:セドリック・デュピール & ガスパール・クエンツ)の中でも演奏している。
あの丘で見た風景の記憶は、映画が公開された2011年の東日本大震災の記憶にまで繋がっていった。2011年「JAZZ ART せんがわ」パンフレットの文章で、僕は「この身も蓋もない、ありきたりの日本の風景が、今は愛おしく思える」と綴った。いま、9年間の「JAZZ ART」の記憶と共に、「日本」の部分を「仙川」に読みかえてみたい。いざ、今年も、あの懐かしき仙川へ
『JAZZ ART SENGAWA 2015』
「音楽が劇場と街をつなぐ力になって欲しい」
当時のせんがわ劇場芸術監督ペーター・ゲスナー氏のそんな想いから「JAZZ ART せんがわ」は立ち上っていきました。
劇場から発信する音楽フェスティバルとして、最も継続が必要だったテーマであり、8年の重みをひしひしと感じています。そして、日本の所謂ジャズフェスと一線を画し、一貫して、純粋なる音楽フェスティバルを目指してきました。
日本の音楽シーンを見渡しても、「JAZZ ART せんがわ」は大きな意味を持ちつつあるかもしれません。
アートには同時に「破壊」が宿っていると思います。むしろ「破壊」のないアートなどあるのでしょうか?
もちろん、いろんな次元の事象なのですが、「JAZZ ART」の「ART」という言葉にさらなる想いを込めて、
「破壊」を恐れないフェスティバルでありたいと思っています。
とにもかくにも、出演者、スタッフ、ボランティア、オーディエンス、8年を繋いできたすべての人に、感謝の言葉しかありません。
ありがとうございます!
『JAZZ ART SENGAWA 2014』
「JAZZ ART」のラインナップは、自分の音楽遍歴の結晶のようなものだと思っています。思い起こせば、第1回2008年の最初のプログラムは作家の川上未映子さん、以降プロデューサーとしての僕は、その時々の自分の音楽活動とリンクして、図らずもフェスティバルの世界観を拡張してきたかもしれません。もはや、王道も邪道もなく、ここにあるのは、純粋に自分の音楽を探求している最高の音楽家たちの現在です。これだけのものを一度にみられる機会は日本中、いや世界中探してもなかなか無いと思います。開催に向け尽力いただいた、スタッフ、関係諸氏、そして仙川に足を運んでくださった皆様、本当にありがとうございます。どうぞ、2014年のせんがわを楽しんで下さい。
『JAZZ ART SENGAWA 2013』
ペーター・ゲスナー(ドイツ・ライプチヒ出身の演出家、前せんがわ劇場芸術監督、「JAZZ ART せんがわ」生みの親)との出会いから始まったこの旅も今年で6年目、ペーターの劇団に参加して、北九州で飲み明かした日々からの始まりを思うと、やはり感慨深い。最初勢いで「最低10年は続ける」と言っていたことが現実的な目標にもなってきた。予算は厳しくなる一方ではあるけど、集まってきた人々がそれぞれの個性や能力を発揮することで、より魅力的なフェスティバルへと、少しづつ進化が始っている。この5年間蓄積してきた有形無形の財産が「JAZZ ARTせんがわ」を支えてくれている。そういう意味でも、ペーターが最も力点を置いていたテーマである「街との関係」がこれから本格的に始まっていくことだろう。
一方、日本一とんがっているフェスティバルでありたいと思う。「卓球は100メートルを全力疾走しながらチェスをするスポーツ」とは、日本卓球の先駆者のひとり荻村伊智朗氏の言葉だが、音楽家として、胸にストンと落ちるものがある。音は、衝動、客観、過去、未来、様々な両極を自在に行き交い、時間軸を切り取るその瞬間、世界を立ち上げる。荻村氏の言葉がその瞬間のとてつもない広大さを表現しているように感じるのだ。そして、一度その世界に触れてしまったなら、もう以前の自分には戻れない…価値観をぶち壊す破壊力、それこそ音楽を含めた芸術の本質だと思う。社会に飼いならされたパッケージに用はない、知的を気取った啓蒙主義などにはお引き取り願おう。野性を放つ真に危険な音楽に出会える、そんなフェスティバルでありたいと思う。
『JAZZ ART SENGAWA 2012』
「JAZZ ART せんがわ」というチャレンジが、5年継続できたのは、つまるところ人に恵まれたのだと思う。出演者、スタッフ、ボランティア、観客、関わってきたすべての人々に、深く深く感謝したい。
東京音楽シーンの底流と「街」がクロスする波紋は、世の中に着実に拡がっていると思う。「JAZZ ART せんがわ」が真に自立するための、新たなスタートとして、5周年を祝おう。
余談だが、今年50歳にして、初めて自分の誕生日ライヴを企画してみた。1月20日、会場は明大前「キッドアイラック・アートホール」、その受付の真横になんと「坂本家式場」の看板が…。隣では、とある「坂本家」の葬式が行われていたのだ。駅から「坂本家」の矢印看板のとおりに行くとライヴ会場に辿り着くという…。
「歳をとらないと死んじゃうよ。」(by ジョージ・バーンズ)
『JAZZ ART SENGAWA 2011』
3月16日、僕は出演した音楽映画「WE DON’T CARE ABOUT MUSIC ANYWAY…」(監督:Cedric Dupire& Gaspard Kuentz 09年)のスタッフ主催の欧州ツアーで国外退避の外国人でごった返す成田を出発した。
この映画は、東京を活動の中心としている8組のミュージシャンが様々な場所で演奏するシーンが軸となって展開していく。例えば廃棄物が散乱する浜辺、夢の島、河原のほったて小屋、僕のソロの演奏シーンは小学校の廃墟だった。制作はフランス人のチーム、「no music no life」とかじゃなくて、「WE DON’TCARE ABOUT MUSIC ANYWAY…」と言ってしまうところに音楽への誠実さを感じ、彼らの、人、モノが溢れかえる「東京」のリアリティが「虚」であることに着目している事にも共感した。ツアーは1年がかりのプロジェクトで、映画フェスでの上映&ライヴなどが組まれていた。
そしてこの震災、実は直前までツアーに行くかどうか迷った。原発事故の深刻さは増すばかりで、余震もおさまらない、この先どんなことになっていくのか見届けなければ、という思いにも駆られた。生命の危機を感じた時の様々を初めて体験したのかもしれない。いきなり「日常」は分断され、ルーティンのほとんどは取るに足らないものとして消えてしまう。生活にとっての「価値」が最優先される状況、その中で何ら変わらず音楽に向かう意味は大きい。世の中にとっての価値のある無しに関係なく、ただ自分が出したい音を出して生きてきたこと、その覚悟が問われるように思った。僕はツアーに出発した。
欧州でも日本の震災がトップニュースで、特に原発事故は日本のマスコミと真逆の最悪の事態を想定しての報道、「成田には戻れないかもしれない」そんな事も頭をよぎる。マルセイユからパリに向かうTGVの車窓からは原発が見えた。さすが原発大国フランス。が、震災前、日本人で普通に実物の原発を見たことのある人がどれだけいただろう。あえて意識しないように、きれいに隠されてきた日本の原発。そして3週間ほどのツアーから帰国、東京は拍子抜けするほど、すでに「日常」が戻っていた。が、「ひとつになろう日本」とかスローガンが喧伝され、自粛に節電、自由にモノが言えない変な空気に覆われていた。原発は、様々な断絶を社会に作り出してきた。その用地買収はお金でコミュニティを分断するところから始まる。放射能被害の認識ひとつとっても、情報、経済活動、地域社会、世代、貧富、男と女、あらゆる局面で分断される。それらは人心のコントロールに都合良く利用され、真に守るべきものを見失う。この際、日本人は一度正しくバラバラになるべきだと思う。ちゃんと自分の頭で考え、行動しているのか、見極める時がきたのだと思う。
今年、53年ぶりに8月6日の広島でプロ野球の試合が行われ、原爆に対する最後の「自粛」がついに終わった。特別な年、2011年はリセットする良い機会なのかもしれない。
映画の中で僕は「今この街の風景が10年20年と続いていく風景に思えない…」と語った。そこに見えるものは「虚」なのだけれど、この身も蓋も無い、ありきたりな日本の風景が、今は愛おしく思える。日本は地震の活動期に入ったという説もある。僕は今、間に合うなら、あらゆる日本の風景を見ておきたい、そんな想いに駆られている。
『JAZZ ART SENGAWA 2010』
「せんがわ劇場」芸術監督ペーターゲスナー氏と僕はテント芝居を通じて知り合った旧知の仲、同い年だ。過去彼から誘われ参加したプロジェクトは、北九州の製鉄所跡地での野外テント公演、カイロ実験演劇国際フェスティバルでのエジプト遠征、ドイツ・ライピチヒでのソロ公演等々、いつも面白い体験をさせてもらって、その突破力には感服していた。もちろん、音楽のフェスティバルを設立したいという話もまたわくわくするものだった。
ペーターのイメージは故郷ライプチヒで体験した「ジャズフェス」、欧州のフェスはやはり奥深いし、街が見える。「東京にいままでにないジャズフェスを作ろう」、なにしろ僕はジャズメンではない。所謂「ジャズフェス」を超えて真の音楽のフェスティバルであること、日本の「枠」に収まりきれない優れた多くの日本人音楽家に光を当てること、僕はその方向性をより説得力のあるものにするため、日本の音楽シーンを俯瞰でき、リーダーシップのある巻上公一さんをペーターに紹介した。そして二人の握手からフェスは現実的に踏み出していく。ペーターはメインストリーム・ジャズにも対応できる藤原清登さんに声をかけバランスをとり、フェスの骨格が固まっていった。そしてこの新しいジャズフェスをどう表現すれば伝わるのか、ペーターが捻り出したのが「JAZZ ART」、外へ発信する時にこういうワンフレーズはとても大事だ、僕は気に入っているのだけど、果たしてどのくらい浸透していくだろうか。
今年は一般向けにワークショップが新たに加わった。一般公募の「自由即興」とともに、フェスが「場」としてどう機能していくのか、とても重要なプログラムだ。また、ライヴペインティング、ダンスのセッションも登場する。これらのコラボレーションはフェスをより立体的に彩ってくれるだろう。
フランス・プロバンス地方のある小さな村のフェスティバルに参加した時、そのフェスのオーガナイザーが操る、不思議な楽器を目撃したことがある。フィルムを回しそれに棒を近づけるとステップディレイがかかったような音が出る、おそらく独自に考案したオリジナル楽器だと思う。後にも先にも見たのはその時だけだ。僕などは一体どういう仕組みで音を出してるのか、ずっと驚きっぱなしだったのだけど、一番驚いたのは、それを見ている村の人たちが全然驚いてないことだった。世にも不思議な演奏を聴きながら、みんなリラックスしてビールとか飲んでる図が最高だった。例えば「JAZZ屏風」、街の人から「今年もまた出てるねぇ。」とか、いつしか街に溶け込んでいく風景になれば楽しい。
「JAZZ ART せんがわ」に関わったすべての皆さま、1年でも長く続けられるように、来年もまたお力添えいただければ幸いです。